時事的画像No.24、そしてSpecial モナクマリンForever ![]() 写真は'00年9/16、秋緒戦、秋草特別(B1)、圧勝のゴール前 2000年、春、福山。「戦国ダービー」と言われた混戦模様の中、彼はいた。 デビュー以来スピードの非凡さは注目されていたが、気むずかしさも併せ持つがゆえ、発馬難をも抱えていた。その福山ダービーは5着で終えた。 マイルの条件戦快勝を挟んで、スター候補として名乗りを挙げたのは瀬戸内賞。益田ノア、高知エムエスベッカーに同じくアポロスイセイ、そして彼、快速自慢が揃い、小細工無用で競り合った、後に伝説的に語り継がれる逃げ合戦を制し、重賞初勝利を成し遂げた。 モナクマリン、人呼んで"音速の貴公子"―― 初めは、大仰な見出しで定評のある予想紙が何気なく進呈した通り名だった。が、程なく、それに誰も違和感を覚えぬ馬となる。 この勝利の後、次の銀杯はパスしていち早く休養に入った。そして秋、緒戦は秋競馬開幕開催のB1のマイル戦。新しい砂が綺麗に入って高速馬場になったとはいえ、当時のレコードのコンマ7に迫る時計で、ブッチ切りで逃げ切って見せた。 迎えた三冠第2弾、鞆の浦賞。春の戦国模様は二強時代に移行していた。その一方は彼、そしてもう一方は、銀杯にて衝撃の捲り一気を決めてスターダムにのし上がった、ミスターカミサマ。スピード逃げvs大捲り、極端な脚質の対決。が、結果は彼の逃げ圧勝。これが1800m戦での初勝利でもあった。会心の勝利に、ゴール後、いつもは沈着な名手岡崎騎手の左腕がスッと上がった。ガッツポーズ。 エピソードの多い馬だった。当初は、「この馬には1250mすら長い」といわれた。調教や能検では、鞍上が持ったままで破格の時計で走ったという。当時の主戦であり、調教パートナーだった岡崎騎手が辿り着いた、この馬最適の騎乗法は「手綱制御せず、馬の行きたいように行かせる」だったとか。 全日本アラブグランプリ。単勝3番人気――かつてあれほど距離不安を指摘されたこの馬を、多くのファンがこの2250m戦で支持した。果敢に逃げ、4着。ライバル、ミスターカミサマが華々しく優勝した。 リベンジの機会は程なく訪れた。三冠最終関門、アラブ王冠。雨馬場の1800mを快勝、これで福山二冠を達成。「モナクマリン、ムッチャ強いですね!」負傷欠場の岡崎騎手に代わり、アラブグランプリから手綱を任された、岡田騎手にレース後声を掛けた。曰く「岡崎さん(が乗った)ならもっと強いですよ。」人馬共の、微笑ましいエピソードがまた一つ、増えた。 420k前後の小さな馬だった。しかしながらその体には、胸前にもハラメにもトモにも、ビッチリ筋肉が付いていた。明るい栗毛、薄い皮膚は、輝いていた。 テンの出は並の逃げ馬。しかし二の脚三の脚の加速感が違った。瞬く間に後続を引き離す。そしてそのまま、逃げ切る。しかもタイムがいつも規格外に速い。「日本一速いアラブ」この頃の彼は、間違いなくその称号を受けるに足りた。 以上で、語るべき彼の音速伝説は尽きる。 明けて4歳、彼はレースから姿を消す。長期休養。真相は脚部不安、それも競走馬としては致命的なもの、だったという。 4歳夏と5歳年明け――それぞれ金杯とマイラーズカップを目指してと思われるが――2度戦列に復帰するが、7戦して結局1勝するに止まる。満足に稽古できないからであろう、そこにいたのは、全盛時の筋肉は別馬のように失せ、毛艶も冴えず、二の脚三の脚こそそれらしいものの、捕まり、バテる彼の姿であった。 そして2002年、5歳6月、「疝痛のため死亡」との報が、ひっそりとファンにも伝わってきた。 正直に書く。停滞する彼のことを、現在進行形で意識することなど、最近ではなくなっていたところ、この訃報にあたり、改めてその全盛期を思い返すことになった、と。日々続く競馬にあって、ワシは移り気で日和見だ。 が、ここにおいて、その速さ、強さが、あまりに鮮烈かつリアルに蘇ってくるのである、輝きの強さを、改めて思う。 最後に再び言おう。 |
時事的画像掲載:2002.6.20〜7.11 |